Board

悲しいお知らせ
Posted By
나눔의 집
Date
2017-07-24
Add File

김군자 할머니 2017년 7월 23일 오전7시 56분 타계
金君子ハルモニ 2017年7月23日 午前7時56分 他界

김군자 '하루에 40여명 상대로 성노리개 생활'
金君子「一日に40余名を相手に男の慰み者として生活」

강원도 평창에서 태어난 김군자(1928년생) 할머니는 10대에 부모를 여의고 1942년 우리 나이로 17살때 중국 지린성(吉林省) 훈춘(琿春) 위안소로 강제동원됐다.
江原道平昌(ピョンチャン)で生まれた金君子(1928年生)ハルモニは10代に両親を亡くし、1942年16歳(韓国の歳で17歳)の時、中国吉林省の琿春慰安所に強制動員された。


해방 후 38일을 걸어 조국에 돌아왔다는 할머니는 "하루에 40여명을 상대로 성노리개가 되어야 했고 죽지 않을 만큼 맞아서 고막이 터졌다"고 위안소 생활을 기억했다. 2007년 2월 마이크 혼다 미국 연방하원이 주체한, 미국 의회의 일본군 위안부 청문회에서 끔찍했던 과거사를 증언했다.
解放後38日もの間歩き続け祖国に帰ったというハルモニは、「1日に40余名を相手に性の玩具にならなければならず、死なない程度に殴られ鼓膜が破れた」と慰安所での生活を記憶した。2007年2月マイクホンダアメリカ連邦議員が主体したアメリカ議会の日本軍「慰安婦」聴聞会で恐ろしい経験を証言した。

또 할머니는 정부에서 받은 보상금 등을 고스란히 모았다가 자신처럼 부모 없는 학생들이 공부할 수 있도록 써달라며 2000년, 2006년 두 차례에 걸쳐 총 1억원을 아름다운재단에 기부했다. 김 할머니는 1998년 경기도 광주 나눔의집에 들어와 지금까지 살고 있다.
またハルモニは政府から受けた補償金などをそっくりそのまま、自分のように両親のいない学生たちが学習出来るように使って欲しいと2000年、2006年2度に渡って総1億ウォンをアルムダウン(美しい)財団に寄付した。キムハルモニは1988年京畿道廣州市のナヌムの家に入り、今まで暮らしていた。

일본군 '위안부‘ 피해자 증언 김군자 할머니 ‘16살때부터 3년간 지옥생활‘
日本軍「慰安婦」被害者 証言金君子ハルモニ 「16歳の時から3年間地獄のような生活」


자살기도 7차례•••'생전에 사과 받겠다'
自殺を7回試みた…「生前に謝罪を受ける」

"'내가 살아있는 한' 위안부에 대한 진실 알릴 것입니다."
「私が生きている限り、慰安婦に関する真実を知らせ続けます。」

김군자 할머니, 열여섯 꽃다운 나이에 제2차 세계대전 당시 일본인들에 의해 끌려간 위안부 피해자다.
金君子ハルモニ、16歳花のような歳に第二次世界大戦当時日本人たちによって連れていかれた慰安婦被害者だ。

26년 강원도 평창에서 태어난 김 할머니는 10살에 부친을 14살에 모친을 잃으면서 고아가 됐다. 이후 친척집에서 자랐고 16살에는 사랑하는 남자도 만나 결혼을 약속했다. 하지만 전쟁이 터지면서 김 할머니는 위안부로 전쟁터에 끌려갔다.
26年江原道平昌(ピョンチャン)で生まれたハルモニは、10歳の時に父親を14歳の時に母親を亡くし、孤児になった。その後親戚の家で育ち、16歳の時に愛する男性と出会い結婚の約束をした。しかし戦争がはじまり、慰安婦として戦地に連れていかれた。

중국 훈춘에 도착해서도 김 할머니는 돈 벌어오라고 보낸 줄 알았다. 하지만 김 할머니는 그곳에서 일본 군인들의 성 노리개가 돼야했다. 저항하다가 맞아 왼쪽 고막이 터져 지금도 왼쪽 귀가 들리지 않는다.
中国・琿春に到着してもハルモニはお金を稼いで来いということで送られたのだと思っていた。しかしハルモニはそこで日本軍人たちの性の玩具にならなければならなかった。抵抗して殴られ鼓膜が破れ、今も左側の耳が聞こえなくなった。

 

도망도 쳐봤지만 그때마다 들켰고 구타가 돌아왔다. '이렇게 살면 뭐하나…' 위안부 생활 3년동안 7번의 자살 시도를 했다. 번번히 죽지 않을 만큼까지 맞았다. 죽지 못해 사는게 한스러웠다.

脱出も試みたが、そのたびに見つかって殴られ、連れ戻された。「こんな風に生きて何になる…」慰安婦生活3年間の間に7回の自殺を試みた。何度も死なない程度に殴られた。死ぬことも出来ずに生きていることが恨めしかった。

이후 고까시로 옮겨졌고 전쟁이 끝나자 한달 넘게 걸려 함경북도 성진에 도착했다. 두만강을 넘을 때는 함께 탈출했던 친구 1명이 강물에 떠내려가 죽는 것을 지켜봤다. 그렇게 죽을 고비 끝에 고향에 돌아왔다. 결혼을 약속했던 남자와 동거하며 잠시 행복했지만 남자 부모의 반대가 극심했고 결국 남자는 자살을 택했다. 동거생활 3개월이 김 할머니에게 안긴 것은 임신. 오갈데 없는 김 할머니는 월남했고 겨우 아이를 낳았다. 하지만 아이도 5개월만에 숨졌다.
以後――に移り戦争が終わってからひと月以上かけて咸鏡北道・城津に到着した。豆満江(トゥマンガン)を渡る際、共に脱出した友人の1人が川の水に流され死んでいくのを見た。そうやって死ぬ思いでなんとか故郷に帰った。結婚を約束した男性と同居し、少しの間は幸せだったが、男性の両親の反対が大きく、結局男性は自殺することを選んだ。3か月間の同居生活がキムハルモニにもたらしたのは妊娠。行く先もないキムハルモニは南(大韓民国)に移り、なんとか子供を産んだ。しかし子供も5カ月で息絶えた。

다시 혼자가 된 김 할머니는 숨어살았다. 김 할머니는 피해자였지만 사람들은 김 할머니를 피했다. 아니면 무관심하거나 외면했다.
再び一人になった金君子ハルモニは、隠れてひっそりと生きた。ハルモニは被害者だったが、人々はハルモニを避けた。そして無関心であったり、無視したりもした。


98년부터는 나눔의 집에서 10명의 위안부 할머니들과 살고 있다.
98年からはナヌムの家で10余名の慰安婦ハルモニ達と生活をした。

김 할머니의 생전 소원은 일본 정부로부터 공식 사과와 정당한 배상을 받는 것이다. 배상을 받으면 사회에 기부할 계획이다. 지금까지 김 할머니는 한국 정부로 부터 받은 정착금 4300만원 등을 모아 아름다운 재단에 1억원 나눔의 집에 1000만원 한 천주교 단체에 1억 5000만원 등을 기부한 바 있다.
金君子ハルモニの生前の願いは、日本政府からの公式謝罪と正当な賠償を受けることだ。賠償を受けられたら、社会に寄付する計画だ。今までハルモニは韓国政府から受けた定着金4300万ウォンなどを集め、アルムダウム(美しい)財団に1億ウォン、ナヌムの家に1000万ウォン、ある天主教の団体に1億5000万ウォンなどを寄付したことがある。

지금은 매주 수요일마다 한국 일본 대사관 앞에 나가 집회에 참여한다. 나서서 위안부 실상을 알린다. 떠올리기 싫은 과거를 털어놓고 나면 가슴이 뛰고 악몽으로 잠을 설치지만 살아있는 한 그리 할 것이다. "짖밟힌 내 삶이 불쌍하고 억울해서라도 '내가 살아있는 한' 사과를 받아내야 합니다."
今は毎週水曜日毎に韓国日本大使館の前で集会に参加した。前に出て慰安婦の実情を知らせる。思い出したくもない過去を吐き出したら、胸騒ぎするような悪夢で寝ることもままならないが、生きている限りは過去をさらけ出していくだろう。
「踏みにじられた私の人生が可哀相で悔しくても『私が生きている限り』謝罪を受けなければなりません。」

 

“世界で一番美しいお金の使い方”

「美しい財団」が2013年5月、日本軍「慰安婦」被害者のキム・クンジャさん記念レリーフを作成して付けた言葉です。

7月23日午前8時4分、私たちの元から旅立ったキムさんは、2000年と2006年の2回にわたり計1億ウォン(約1000万円)を美しい財団に寄付しました。

商売をして貯めたお金と政府の生計支援金を、100円の飲料1本も無駄に買わずに貯め、自分のように親を失って学びの機会を失った生徒たちのために寄付したのでした。

キムさんは日本政府が心から謝罪し、被害賠償をすれば、その金もやはり社会に寄付しようとしました。

ハンギョレはキム・クンジャさんの永眠に、キムさんの人生を改めて振り返りたいと思います。

「慰安婦」被害を世の中に広めた「勇敢な証言者」として、数百人の生徒が学業を続けることができるように力を添えた「寄付博士」として、キム・クンジャさんは永遠に記憶されるでしょう。

 

■キムさんは「勇敢な証言者」

文在寅(ムン・ジェイン)大統領は23日、フェイスブックに掲載した文で、キム・クンジャハルモニ(キムさん)を「強靭な生存者、勇敢な証言者」と言いました。文大統領は2015年12月31日、共に民主党代表時代、京畿道光州(クァンジュ)のナヌムの家を訪問し、キムさんに直接会った縁があります。

 

共に民主党の文在寅代表が2015年12月31日午後、京畿道広州市の日本軍慰安婦被害者の憩いの場「ナヌムの家」を訪問し、キム・クンジャさんと話を交わしている=国会写真記者団//ハンギョレ新聞社

 

 文大統領の言葉通り、キムさんは勇敢でした。10年前の2007年2月15日(現地時間)、米ワシントンの下院外交委アジア太平洋環境小委員会の聴聞会場。当時81歳だったキムさんは、イ・ヨンスさん、オランダ出身「慰安婦」被害者のヤン・ルーフ・オヘルンさんとともに証人として出席し、日本軍の蛮行を告発しました。キムさんはこう言いました。

 

 「死ぬ前に日本の謝罪を受けなければならないという思いで米国の地まで来た。私の体のあちこちにはとてもたくさんの傷跡が残っており、死なない限界まで殴られた」

 

 「慰安所で1日平均20人、多くは40人まで日本軍を相手する地獄のような生活をした。私たちは今、お金を望むのでなく、彼らが犯した人権蹂躙と戦争犯罪行為について払わなければならない代価があるという点を認識することだ」

 

「日本政府は、人間を人間として扱っていなかった」

 

 「多くの(慰安婦出身の)ハルモニたちが死んだが、歴史は生きているはずだ。失われた私の人生をお金で補償することはできない」

 

2007年2月15日午後(現地時間)、米ワシントンの下院外務委で開かれた「慰安婦」聴聞会で被害女性らが傍聴席で参観している。左から2番めがキム・クンジャさん=国会写真記者団//ハンギョレ新聞社

 

 その日の証言の通り、キムさんの人生は苦しく孤独でした。1926年、江原道平昌(ピョンチャン)で生まれ、10歳で父を、14歳で母を亡くしました。ちゃんと勉強することもできないまま親戚の家で育ち、17歳の時に使いに出され、中国吉林省琿春慰安所に連れていかれました。

 

 3年間の「慰安婦」生活の間に、自殺を図っただけでも7回。日本兵に殴られ、鼓膜が破れ、生涯左耳は聴こえませんでした。日帝が滅びた後、38日間歩いて豆満江(トゥマンガン)を泳いで渡って故郷に戻ったけれど、「慰安婦」以降の人生も容易ではありませんでした。連れていかれる前に結婚を約束した男性と同棲し短い幸せな時を過ごしたが、家族の反対で男性は自殺しました。その後一人で生んだ娘は5カ月後に亡くなりました。その時から1998年にナヌムの家に来るまで、キムさんは一人で暮らしました。

 

 「寂しかった。一人で暮らしていたから。それが一番つらいんだよ」生前、キムさんは生きてきて何が一番つらかったかという質問にこのように答えました。

 

日本軍「慰安婦」被害者のキム・クンジャさんが2007年3月1日、京畿道広州市のナヌムの家で開かれた2007ナヌムの家・小正月地神踏みの行事で、米議会聴聞会参加の感想を語っている=ハンギョレ資料写真//ハンギョレ新聞社

 

 キムさんは、寂しさと苦痛の中に閉じ込められることを拒みました。ナヌムの家入所後、キムさんは日帝の蛮行を知らせ公式謝罪・賠償を受けるための闘いを始めました。キムさんは国内と日本を回り、証言に立ち、2003年には韓国政府が1965年の「韓日会談」文書の公開をしないと明らかにすると、抗議の意思表示として国籍放棄申請を出したりもしました。

 

 怒号も厭いませんでした。2015年12月28日、「韓日慰安婦合意」締結後、イム・ソンナム外交部1次官とチョ・テヨル当時外交部2次官がナヌムの家を訪れた時のことです。「ハルモニ方が満足しないというのはわかるが、朴槿恵(パク・クネ)大統領が就任直後からこの問題を解決するために努力した結果」というチョ次官の言葉にキムさんは「政府同士でした合意は認めない。死ぬ前に胸にあふれる恨(ハン)を解いてほしい」ときっぱり言いました。

 

■キムさんは「寄付博士」

1998年入所後、生涯の居場所となったナヌムの家の部屋の前には、博士のガウンを着たキムさんの写真が掛かっており、その下には「寄付博士」と書かれていたと、美しい財団は伝えます。

 

2000年8月30日、「美しい財団」で開かれたキム・クンジャさん基金の伝達式=写真/美しい財団提供//ハンギョレ新聞社

 

 キムさんと美しい財団との縁は2000年にさかのぼります。美しい財団「第1号基金拠出者」だったキムさんは、発足したばかりの財団に5千万ウォン(約500万円)を寄付し、このように述べました。

 

 「私が孤児だったから。学んだのは夜学の8カ月が全て。幼くして親を亡くして勉強できなかったから暮らしがこんなに大変だったようで…。少しでも学んでいたらこんなに大変ではなかったはずなのに、とよく思ったよ。貧しくて親のいない子どもたちが学ぶ機会だけでも持てるように役立ちたい。でもとても少ないお金なので恥ずかしくてすまなくて」

 

 

2000年8月30日、「美しい財団」で開かれたキム・クンジャさん基金の授与式で、キムさんが自分の名前を書いた「ナヌムの短冊」を飾っている。貧しい家庭と「慰安婦」強制動員で文字を学べなかったキウさんは自分の名前をはっきりと書いた=写真/美しい財団提供//ハンギョレ新聞社

 

2014年12月19日、大統領府で開かれた国民推薦褒賞授与式で朴槿恵(パク・クネ)大統領が、生涯集めた財産1億ウォンを寄付した「慰安婦」被害者キム・クンジャさんに国民勲章椿章を授与している=大統領府写真記者団//ハンギョレ新聞社

 多くを出せないことを申し訳ないと思っていたキムさんは、とうとう2006年に5千万ウォンをさらに貯めて財団に寄付しました。キムさんの貯蓄の秘訣はこうでした。

 

 「よく見れば1年間で1千万ウォンは貯められた。お金持ちにとっては大したことじゃないけれど、私には簡単ではなかった。服は体が匂わない程度だけを持っていればいいし、暮らすのは横になれる場所があれば大丈夫だし。お金が入ってくれば、ただ子どもたちに奨学金をあげたい一心で貯めたんだ。どうか親がいなくて学ぶのに苦労している子どもたちに上げてください」

 

 キムさんの5千万ウォンからはじまった「キム・クンジャさん基金」は、709人の寄付者とともに11億ウォン規模に増え、2017年7月基準で250人の児童保護施設を退所した学生たちが学費の支援を受けました。

 

2016年秋夕、ナヌムの家を訪れた「キム・クンジャさん基金」奨学生たちがプレゼントした手紙をキム・クンジャさん掲げている=写真/美しい財団提供//ハンギョレ新聞社

 

「慰安婦」被害者女性たちのネパール大地震救援募金伝達式が開かれた2015年5月12日午前、ソウルの映画会社で釜山のイ・オクソンさん(左から)、キム・クンジャさん、ソン・ウォルジュ和尚、ナヌムの家のイ・オクソンさんが記念撮影をしている=キム・ソングァン記者//ハンギョレ新聞社

 キムさんは、美しい財団のほかにもカトリック教会の水原(スウォン)教区庁に1億ウォン、ナヌムの家に1千万ウォンを寄付し、2015年5月にはナヌムの家のハルモニたちと500万ウォンを集めてネパール大地震の被害救援募金に出したりもしました。キムさんは自分の葬儀費用500万ウォンを除いて、惜しみなく分け与えました。

 

■キムさんが残した「偉大な遺産」

 

チョン・ヒョンベク女性家族部長官が7月10日午前、京畿道広州市のナヌムの家を訪問してキム・クンジャさんと挨拶を交わし手をぎゅっと握っている=広州/シン・ソヨン記者//ハンギョレ新聞社

 

 7月10日はキムさんが最後にカメラに収まった日です。キムさんはナヌムの家を訪れたチョン・ヒョンベク女性家族部長官に会い「被害者たちの名誉を回復してほしい」とお願いしました。最後の遺言のようにこの言葉を残して2週間後、キムさんは永眠につきました。

 

 別れの予感がしたのでしょうか。5月の誕生日に会った美しい財団のスタッフたちには「人生が数奇で、私の運命ばかりこうなのかと悔やまれるときが多かったけれど、振り返ってみると、私の財産はすべて与えて生きるだけ生きたから、後悔はない。だからどうか楽しく生きてほしい」と呼びかけたそうです。

 

2013年5月27日、記念レリーフの除幕式に出席したキム・クンジャさん=写真/美しい財団提供//ハンギョレ新聞社

 

 このように全財産を寄付したキムさんは「偉大な遺産」を残しました。まさに250人の奨学生です。ある学生は生前のキムさんに宛てた熱い思いを込めた手紙にこう書きました。

 

 「キムさんが寄付してくださったおかげで入学金を払えました。この社会で、他の人を助けることができ、また見回ることのできる人になります。ありがとうございました」

 

参考:ナヌムの家・美しい財団ホームページ

(ハンギョレ新聞から抜粋)