資料によると、'日本の陸軍兵士による姦事件を
防止するために上海に慰安所を設置した’とされ
ている。しかし、'陸軍の慰安所は日本海軍の慰
安所制度に倣って作られたもの'という証言から
推測すると、1932年 3月以前にに上海の日本の
海軍のために海軍慰安所が設置されていたと考
えられる。


1932年頃から日本軍の占領地に 設置され始め
た慰安所は1937年末に質的な轉換を受け、終戰

時まで継續された。占領地の擴大と戰爭の長期化に從い「慰安婦」の需要が多くなり、日本軍及び陸
軍省の体系的政策が施行された。それは派遣軍指示のレベルから、再び日本軍及び陸軍省の指示とな
り、陸軍省の總体的企にまで指示レベルが上がった。


1937年日中戰爭が本格化しながら日本軍の慰安所設置が急≠オた。上海事変が終了し、日本軍に南
京が占領されながら軍の命令体系を通して組織的な慰安所設置と管理が行われるようになった。この
時期の「慰安婦」集には日本軍と警察が組織的に關与した。「慰安婦」達は朝鮮や日本、中國、
そして台湾等、各地で多角的に强制連行した。


1938年末まで上海、杭州、九江、蕪湖、 漢口、南昌、アモイ等に70を越す慰安所が設置され、
1000人以上の「慰安婦」達がいた。このうちの多數が朝鮮人女性だった。日本が1937年7月、 日中戰爭を起こした後、立案した秘密文書である'朝鮮民族對策'には'朝鮮のヨ少年を日本地に連行
し、炭鉱及び軍需工場その他に分散させ使役する'という條項とともに'朝鮮の未婚女子を軍隊の特殊
用務に当てる'という項目がある。陸軍省が主導して內務省、外務省、日本の政府機關と朝鮮總督府と
台湾總督府が積極的協力をする体制だった。


1941年 7月から日本軍は對ソ戰の準備をしながら朝鮮から2万人の「慰安婦」を集める計をたて、
實行に移した。その結果、朝鮮總督府の手を借り、8000人あまりの朝鮮人女性を集し中國東北部へ
送った。この「慰安婦」達を募集する過程で日帝は人身賣買や仕事斡旋を餌に誘う等、多樣かつ非人
間的な手法を用い、「慰安婦」当事者達が自分で判斷する機會を奪った。


1941年12月太平洋戰爭により戰場が擴大していく中、慰安所設置も♂チした。戰鬪が必要とされ
るところにはどこへでも「慰安婦」がいるといえる程に慰安所はあらゆる軍隊駐屯地で設置された。
1943年1月現在、日本軍將校以下の兵士を慰安する施設が北部中國に100箇所、中部中國に140箇所、
南部中國に40箇所、東南アジアに100箇所、 南海に10箇所、サハリンに10箇所等、全部で400箇所
に慰安所があった。日本軍1個師団には5ないし6個の慰安所があり、ここには日本人や朝鮮人
「慰安婦」達がいた。前線が擴大すると日本人の賣春婦や一般女性の動員だけでは需要に応えるこ
とができなくなり、色々な手段で植民地の朝鮮の娘達を動員して日本軍の'性奴隷'としたのだ。


1942年からは本格的に大量の朝鮮人女性達が南方地域へ派遣され、1943年当時、武漢兵站慰安係長
の回顧錄によると漢口赤井里には陸軍慰安所が20箇所があり、そのうち11箇所は朝鮮人経營によ
る朝鮮人「慰安婦」150人あまりがいたという。これら朝鮮人「慰安婦」の大部分が賣春経驗のない
18-19歲の幼い少女たちであった。


1943年後半にさしかかり次第に物資や勞働力の確保が難しくなると民間業者に任せて慰安所を作
るのもまた容易でなくなった。沖縄とオランダ領インドネシア等の地で日本軍は直接、慰安所設立に
乘り出し、これにより「慰安婦」動員もさらに制性を≠オた。朝鮮での制動員のみならず占領地
での現地人「慰安婦」 制動員が廣範囲に渡り行われたのである。